2012年6月23日土曜日
入植地 パート2。
突然の眠気により前回の記事はタイトルに『入植地』と書きながら入植地にたどり着く前に『ふわっ』とした感じで終わると言うスタイルを貫いてしまいました。
前回記事
どうも、僕です。Soですが。
黄色一色に塗られたパレスチナの乗り合いタクシーに乗り、入植地◯◯へ。
もちろん、パレスチナの乗り合いタクシーなのでイスラエルの入植地までは行かない、途中からは歩いてイスラエルの入植地に僕とヤンは入って行った。。。。
イスラエル最大の都市『テレアビブ』への道を示す道路標識を見ると、今いる場所がパレスチナである事を感じられなくなってしまうが、僕がいる場所は完全にグリーンラインに食い込んだ場所でパレスチナのだ。
入植地はパレスチナ人から土地を奪い、入植地を結ぶ道路はパレスチナの街と街とを分断するかの様に作られパレスチナ人の交流を奪っている。
そして、この様な物理的な攻撃はパレスチナ人の心を傷付け続けている。
イスラエル・パレスチナ間の和平交渉において入植地問題は東エルサレム問題と同様に和平の道への最重要課題であり、両者の主張がもっとも噛み合ない問題である。
。。。。。。。入植地は有刺鉄線がまかれた柵で囲まれ入り口のゲートは軍と銃で武装した入植地住民によって守られていた。
ゲートに着いた僕らは門番に事情を説明し、取材先の家族に連絡をし迎えを待った。
その間僕は少し門番の男性と世間話をしてみる事にした。
正直、僕は入植者はガチガチの宗教者で外国人が入植地を訪れる事すら嫌う難しい国粋主義者だと思っていた。
僕『こんにちは』
門番『こんにちは』
僕『ここにはどの位の人がすんでいるんですか』
門番『200家族ぐらいかな』
僕『結構いるんですね、門番は住民内で交代でするんですか』
門番『そうですよ、週末は交代で門番してるんですよ』
.........終止笑顔での対応。
おおっと、怖い人と思ったけどちゃうな。。。。。
そんな事を思っていると迎えがきたので、迎えの車に乗り取材先の家族の家へと向かった。
取材を受けてくれた家族は40代後半の父母と20代の息子3人、高校生の娘1人の6人家族。
息子達は結婚している者と兵役中の者がおり、家には週末のみ帰ってくるだけだと言う。
今回の取材の目的は10代の入植地住民のインタビューを撮影する事だったので主に高校生の娘とその友達を中心に撮影をしたのですが、その前に彼女の両親に取材の意図を伝え撮影の許可と入植地問題の話をしようと思い、僕らはお茶をしながら庭で話を始めた。
突然ですが、医者に行くのでまた続きは今度書きます。
申し訳ない。。。
So
2012年6月17日日曜日
入植地。パートいち。
みなさん。
暑いですね。もう暑いったらないですね。
先日、日本の友人に僕の家は石作りでいくら外が暑くたって中はヒンヤリしてて、去年の夏は扇風機すら使わんかったで!!何て事を言ってやりました。
が、昨夜は風のない熱帯夜だったこともあり、寝苦しいったらありゃしない。
『地球ってこんなに空気薄かったっけ?』
『ねえおじいさん教えてよ?』
『アルムの森の木教えてよ?』
『ららららら〜。』
とまあ返事もないので水シャワーを2度浴びやっと眠りに着きましたとさ。
『ねえ!!夏ってこんなに暑かったっけ!!』
アホの僕は毎年思っています。。。。。
とまあ、暑さに文句をつけたくなる季節ですが、昨日の僕はマジメにジャーナリズムに従事して参りました。
というのも、先々日に仲間のベルギー人ジャーナリストから『明日パレスチナ内にあるイスラエル人の入植地の取材でOOと言う入植地に行く事になったんだけどSO明日よかったらカメラマンとして来てくれないか??』と言うオファーを頂きました。
二つ返事で僕は『ええよ行くわ。』と返事し、学校終わりにそのままパレスチナの暫定首都である”ラマッラ”にある仲間の住む家へと向かいました。
現在パレスチナのラマッラでは至る所でマンションや多目的ビルなどの建物の工事が行われており、また街の中心では多くの商店が立ち並び ”アラブ的な今時” な若者達や家族連れでとても賑やかな街の表情があり、恐らくみなさんの思うパレスチナのイメージとはかなり違う表情を見せています。
そして、唯一パレスチナ人だけで構成されている大都市でもあり、イスラエル内にあるイスラエル人も立ち寄れるアラブ人街とは全く違う雰囲気を思っていて、イスラエルを地元としている僕は少し海外にでも来た様な気持ちになってしまいます。
とまあ、エルサレムのアラブ人街からバスに乗り途中イスラエルのチェックポイントを通りながら約40分程でラマッラに着き、家の場所を聞く為に仲間に電話をしてみました。
僕『着いたよ、家どこ?』
ヤン『今ご飯作ってるからタクシーで来てよ10シェケル(約250円)位やから。家はOOOO・ホテルの近くでこのホテルは皆知ってるからすぐ分かるわ。』
僕『待って!!何て言うホテルの名前??マザンビーク・ホテル??』
何故僕が分からなかったかと言うと、彼の英語のアクセントがもうエゲツナイ程きつく全く分からない時があり、大事なホテル名がその全く分からんアクセントの時にガッツリ当たってしまったのだ。。。。
ヤン『モザンビークじゃないよ、OOOOだよ』
僕『え?ごめんヤン、全然分からん。もう一回言うて。』
このやり取りが5・6回続き、それでも理解し得ない僕らでしたが、ヤンが突然!!
ヤン『M・O・V・A・M B・I・T・C・H ホテル』とアルファベットでの説明をしてきたのです!!
僕は何で最初から僕らはこの方法を取らなかったのか?と自分のアホさを笑いながら復唱し、ビッチって無茶苦茶な名前やなと思いながらも黄色一色で塗り固められたパレスチナタクシーを止めドライバーに『モバム・ビッチホテルまでお願いします。』と告げ、10分程で中々大きく派手にライトアップされたモバム・ビッチホテルに着き、僕はホテルの全体を見ようと正面に周り建物を見上げるとそこには。。。。。。
モベン・ピック........................
全然ちゃいますやん!! ビッチちゃいますやん!!
.........................................................と、言う事があったんやて。
ちなみにこのホテルでは最高の思い出を作れるウエディング・パティーや友達を見つけれるバーや最高のイタリアン料理が味わえるそうです。
とまあ、仲間の家に着くとまあ家がデカイ。
家には数人の若手ジャーナリストや活動家が住みパレスチナを守る活動をしており、家の家賃はパレスチナを支援するヨーロッパのウェブサイトが得た寄付金から支払われ、その代わりに彼らはウェブサイトが求める取材などをしてギブ&テイクによって成り立っている。
ヨーロッパやアメリカではパレスチナ問題は大きく取り上げられ、活動家やジャーナリストがエルサレムやパレスチナにわんさかいる。そして、ほぼ100%は何かしらの団体に所属してイスラエルに対しての抗議活動などをしている。その活動費は所属する団体が得た寄付金などによって賄われていたり、活動家の自費である。
人の為に何かすると言う事は、体力・メンタル的に簡単ではないと本気の活動家を見ると思い尊敬してしまう。
突然ですが眠くて頭が回らないので、続きはまたパート2で書きたいと思います。
ごめん。
So matsuzawa
2012年6月8日金曜日
タフな試合です。
最近タフな毎日が続き、自前の精神力を再確認させられる日が続いております。。。
結果から言うと、ええ線行ってるけどまだまだです。。。
学校の課題や経済的圧迫感は僕に挑戦状を常に突き出してきますが、気にしては持たないのは分かっているので無視しています。
僕は僕の弱い部分を無視すると言う技を編み出しましたのさ。
これが中々、役にたつ技なんです!!
基本的に”不安”的なもんは、賞味期限の短い無形の”想像”に過ぎないので放っておいても全く害はなくむしろ放っておく方がええんです。
それに、働けば金は入るし。
がんばれば、課題の作品だって期限内にできる事は分かっているし、僕はできるので大丈夫なんだと冷静な時には思える事が、常に頭の片隅に置ける様になったので放っておいて良いんです!!
ただ、あたくしもまだまだ若造ですから時には落ち込むしイライラしてしまいます。。。
今日はヒサビサにゆっくりできるw
火曜日の松澤聡VJ童貞卒業記念祭と自称している、イベントを仲間とやるので今日はそのVJの元ネタを集めたいと思います★
あでぃおす 友達。
マーク松澤。
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