2013年1月1日火曜日

2012年、最後の作品

『空 kuu』


人は、たとえ同じ時間・同じ空間にいて、同じ何かを経験しても完全に共有できている真実はなく、それぞれの人間が持つ価値観や過去の経験や脳の自然的に発せられる感覚などで作り出された結果としての情報(真実)しかそこには存在していなくて、共有とは同じ意識下にいる人が形のない情報の概要部を一定方向性の強い形にして理解し、再構築している”結果”それが共有と呼ばれる存在になっているのではないだろうか?




この作品では、特定多数の日本に住む友人に空を撮ってもらい、
撮影者が存在する空間と時間の中で撮られた日本の空をカメラ→パソコン→インターネット→パソコン→プロジェクターと言うデジタル機器を通して繋ぎ合わされた情報(空の映像)としてイスラエルにある建物の天井に写し出しました。




デジタル機器を通して黒い箱の小さな穴から(大地から目出る生命のイメージ)撮影者が撮影した映像の元にある時間と空間の情報は100%共有する事は出来ないが、情報として再分割されプロジェクターから飛び出し天井に結果として写し出される迄の間に漂っている形のない情報(映像)は人が共有と呼ぶ情報を表し共有と言う存在の不確定さを表しています。



と言う様な事を、雑誌編集者の友人に説明すると
『つまり、ある歌を聞いた時、厳密に言えば人はそれぞれ違う感じ方をするし、作り手が込めた思いをすべて汲み取れるわけではないけど、歌のモチーフとなった事柄のぼんやりとした輪郭を多くの人は共有している。て言う事?
と、さっと綺麗にしてくれました。
厳密には共有は存在しないと言うのが僕の意見ではありますが、この友人の説明の方が完全にキレイですな、と思いますw


まさかの出来事に打ちのめされている、ここ最近ですがディプレスはアートには栄養だと言う事を仲間と呟きながら生きております。。。。




2012年を振り返りますと、夏に二度目の瞑想合宿的なモンに行って来たんですが、一回目の合宿の時の様な衝撃もなく一週間だんまりを決め込んで瞑想に集中することが出来ました。
そこで僕は何か『分かっちゃった』感が凄くて大勢で瞑想する意味とセミナーを聞く意味、全体から醸し出されるスピリチュアル感の意味の無さを相当感じました。
瞑想は凄くいいモノだと思うんですが、今あるスピリチュアルと言うモノのもろさを感じてしまいました。
と言うのは、スピリチュアルと言う言葉が一人歩きして宗教の様な存在になってしまっている様に思え、苦しみながら苦しみに立ち向かう個人の勇気と想像力と言う人間力を育てさせないんじゃない?何て僕は思っています。
『分かっちゃった』と言うのは僕の中の瞑想やスピリチュアルと言うモノに対するものであり、誰かの中の瞑想やスピリチュアルとは違うと思うので、あくまで個人の感想と言う事でww

誰かに、どこかにと他力に頼るのではなく、どこでだって自分を理解する事ができるじゃないか、そこに苦しみはあって当たり前の事だと僕は思う。
そうじゃないと本当の自分と言う意味不明な存在を理解できるワケがない。てかっw

2013年どうなるかな〜ww

So