2009年10月30日金曜日

雨の日





 今、テルアビブでは雨が降っています。それも雷が『ドッドーン!!』と唸りをあげる程の大雨です。   何か雨に対して思い出がない限りは、この文を見ても僕たち日本人が見ると、『雨なんや。』と思うぐらいではないでしょうか?そして、あなたが感じる雨に対してのイメージはどんなイメージでしょうか?みなさんそれぞれのイメージを雨に対して持っていると思うんですが、それは雨の副産物から産まれたイメージであって、雨その物から直接感じるイメージではない気がするんです。僕にとっての雨の副産物はイメージを生み出すと言う物なんです、例えば高校の時は雨が降れば止むまで学校に行かなかったので梅雨の時期に遅刻・欠席が増えてもう少しで留年の危機に立たされた思い出を思い出します。
雨が降ると視界が狭くなり、それによって自分の視野まで狭くなるイメージがするんです。とか言いながらも、見える範囲が狭くなって近い所にある物を真剣にみつめてしまったりする事で、新しい発見があったりして一人でテンション上がったりもするんですけどねw
 
 と言う様に、僕の場合も雨自体に何を思う訳ではないんです。それはきっと、日本には梅雨があり雨と言う自然現象に一年を通して付き合っているからではないかと思うんです。
しかし、イスラエルでは梅雨もなければ夏に雨が降ることもありません。以前にも書いたのですが、水はこの国にとってとても大事な宝物なので、それを生み出す雨と言うものにはとても敏感にこの国の人達は反応しています。雨が降れば外に出たくなったりうれしくなったりして雨その物に対して直接的な喜びを彼らは抱いています。

 それを見るとまた世界には色々な地域があって色々な人達が住んでいて、そして考え方はみな違うんだなと思ってしまいました。こういう事を誰かから聞くだけではなく自分の目で見て感じ考えれる事が、自分の知らない土地でくらす喜びなんだと僕は思っています。

 と喜んでいる間もなく、僕の住むぼろアパートでは雨漏りがポタポタと落ち始め、階段からは雨が川の様に屋上から流れ込んできています。これもまたいい経験ですねw


2009年10月27日火曜日

Gay party in Telaviv.



 先週末に仕事でgay partyの撮影に行ってきました。僕はGAYの方には何の偏見も特別意識もないのですが、gay partyに行くのは初めてだったので緊張と期待感を抱きながらクラブへ向かいました。深夜1時位にクラブに着き中に入って見ると男性がクラブ全体の99%以上を占めていて、このクラブはtelavivでもかなりの大きさなんですが満員御礼状態でした。
 僕は完全に圧倒されてしまい、まず落ち着こうと思いたばこに火をつけクラブの端へ向かい全体を見回すと、厳つい見た目の人や優しそうな顔の人、ほんとに街で見かける普通の人達が、あちらこちらで接吻をしているのが見え、これ又驚いたのですがよく考えるとここじゃ普通やなこれもと思えて来まして、落ち着きを取り戻し撮影に入りました。
 撮影中軽いお触りはされましたが、驚いてても仕方がないので、それを切っ掛けに写真を撮らさせてもらっていると、ステージでshowが始まり僕はステージ前に移動して男性のダンサーの躍動的なダンスを撮影していると、『美』が彼の動きから表現されていて単純に彼のダンスは何て美しいんだと僕はカメラマンの視点からそう感じ、また一ついい体験ができたことに喜びを感じました。

 Telavivはイスラエル国内で一番OPENな街としてゲイやレズが多く住む街でもありますが、イスラエルでは宗教的理由からゲイやレズの人に対して宗教家などから批判や意味のない暴力を受ける事があると聞きます。8月には同じtelavivでGay partyで何者かが銃を乱射し3人亡くなる事件があったばかりだったので、僕の行ったGay partyのCLUBの前には、マシンガンを持った警察官が目を光らしていたのが印象的でした。

こういう光の上にも陰はしっかりと根を張ってしまっていることが何とも悲しく僕は思いました。


2009年10月26日月曜日

もっと出して行こうと思い始めました。





 本日よりもっと自分の写真を出して行こうと思います。
目標は毎日写真だけでもUPして行こうと思います。
では、ヨーイ始め!!!
『木曜日の夜』

2009年10月21日水曜日

出会い。 


 出会いは人に勇気を与えてくれる、僕はそう思っている。

 こうして日本を離れ生活していると、自分は何をやっているんだと落ち込んで腐ってしまいそうになることがあるんです。自分で解決できるのが一番いいのだろうけど、やっぱり僕はまだまだ未熟でそうもいかないこともあり、そんな時に出会う人の優しさが勇気やチャンスを生み出してくれているように僕は感じています。

 相手の発した言葉の一片から自分自身が客観的に見えて、そこから今自分に足りないものが分かり行動に移そうと言う勇気をもらう、また感謝の心を抱き前を向いて一歩一歩、歩き出せるようになり、そう前向きに歩み続ける事でチャンスが産まれるんだけど、世の中っちゅうのは甘くないみたいで、そのチャンスを掴むのは自分自身がどれだけ真剣に夢の為に努力をしたかで決まり、同時に夢とはそう簡単なものではないことも再確認させられるんですよね。

 悔しいんだけど、時代もチャンスも動き続けているからいつまでも落ち込んではいられない。そこは自分自身の為に立ち上がりまた歩み続けなくてはならんと思っちゃうんです。

 まだまだ青二才の僕が言うのもアホかとつっこまれそうですが、人に何かを感じてもらえれるような写真を撮れるようになってみせる!と自分に誓っています。
 
 今自分が助けてもらっているように、いつか自分も誰かに優しくできるようにもっと頑張りたい。そう思わせてくれた出会った人に感謝の心を忘れずに。

ありがとう。
 

2009年10月15日木曜日

疑問に思う事。

 どこに行っても何をしていても、生きているだけで僕たち人間はゴミを出してしまう。
仕方がないと言ってしまえばそこで終わってしまうが、それでは進歩がなく自分勝手すぎる。
では、出来るだけ減らせるゴミは減らして行こう。では何があるだろうか?ちょっとした買い物でも使われるビニール袋に変わって、昔は使われていた買い物袋を復活させてはどうだろうか?
 もしかすると、このようにして生まれたのかも知れない『エコ・バック』だけど今では『エゴ・バック』になってはいないだろうか?
 環境保護運動の一つとして生まれたエコバック、使い捨て主義からの脱却の一歩として僕はとても意義がある動きだと思っています。今ではエコブームに乗り多くの人がエコバックの存在を『いい物だ』と認識してはいるんだけど、そこには疑問に思う事が多すぎる。

 僕が強く疑問に思う事は、多くの企業やブランドがオリジナルのエコバックを作り消費者に提供しているが、その数は今や日本の人口を遥かに超えているのではないだろうか?なのに『エコ』と名のつく物を作る事で企業やブランドのイメージが上がると思っているのか、彼らは作り続けている。

エコバックがゴミになっている何て事実は全く笑えもしない。一体本当の『エコ』とは一体どこにあるのだろうか?

エコバックはもっているだけでは何の意味も持たない只の袋であり、使われて初めてエコバックとしての役を果たすので忘れず携帯してほしいと思う。
 
環境を守る事を商売にする企業やブランドに僕は強い嫌悪感を抱く。

お願いです。もう少し真剣に環境というものを考えてみませんか?





追記。エコバックが万引きの温床になっていてその事がエコバックのデメリットであると書いてあるのを見たのだけど、それは個人のモラルの問題でエコバックの問題ではないと僕は思う。


 

2009年10月11日日曜日

阿吽の呼吸

 今日久しぶりに大阪の友達に連絡を取り話したんですが、会話の内容は近況を聞いたり思い出話をしたりこれからどう生きて行こうか、何て言うありふれた内容だったのだけど、そんな内容でも大阪の血が話の節々に笑いを絡ませ、ボケれば絶妙なタイミングと間で必ずつっこんで来ると言う会話方法なので笑いが止まりませんでした。
 僕は18で大阪を出てから大阪にはたまに帰って来る程度なんですが、帰ればみんな集まってくれおもろい事をしようと声をかけてくれます。何と言うか彼らとは物心がつく前からの友達で、青春時代を共に歩み共に笑った仲であり、僕が心からアホになれる同じアホ達で僕にとって彼らの存在は掛替えのないものであり そして、故郷そのものなんです。そんな宝があることも幸せですし誇りに思ってもいます。
 僕はどこに居ても大阪人なんだと思わされ、そして故郷があるからこそ頑張れる事もあるなと初めて思いました。 

そんな友達に一言いいます。
『ほんまお前らには感謝しますわ、おおきにな。まあ、ほんでこれからもよろしく頼むわ。』