2011年3月10日木曜日

人間は一人で生きる事はできない。ってな事を言いますが....

Facebookを利用しての呼びかけで集まったアフリカ系イスラエル人とアフリカ系労働者の人権デモ隊



 『実験でインターネットに接続できない環境に長時間いると、アルコール中毒患者の禁断症状と同じ症状が現れた』というニュースを少し前に見たのを思い出しました。

このニュースが表している様に、現代日本を含む現代の世界では今やインターネットは無くてはならないものになっていますが、果たしてこれは世界にとって良い事なのでしょうか?

現在インターネットの利用方法で一番多く使われているのは、おそらくインターネットを通じたソーシャルネットワークの利用だと思います。ソーシャルネットワークと言うのは日本で言うとミクシーだったり世界規模で言うとFaceBookであったりと、ネット社会での個人と社会を結ぶツールとして世界規模で利用されています。

始めに取り上げたニュースも単にインターネットに接続できないと言う理由からではなく、ソーシャルネットワークサービス(以下SNS)を利用できないと言うフラストレーションから来る禁断症状だと言う程、SNSは若い世代に浸透しています。

では、なぜそこまでSNSに人々は夢中になるのでしょうか?

そして、そこに現実世界の自分と結びつく個人と言うものは存在するのでしょうか?

まず、SNSに夢中になるのは『周りの人間が始めた』『カッコいい』と言う様な単純な集合意識から来るものが僕は大きいと思っています。また最新の情報を知りたいと言う情報欲と誰かと繋がっていると言う安心感がSNSに依存してしまう大きな理由ではないかと思っています。

僕自身SNSをフル活用している人間ですが、同時にSNSには大きな疑問を持っています。
それはSNSは現実世界の個人と個人を結びつけるツールとして活躍する場合よりも、ネット社会に属する仮想個人と仮想個人を結びつける実は無表情な仮想空間になってはいないかと言うことです。

SNSの場合、個人名や趣味趣向等を掲示してある場合が多いので掲示板などと違い、匿名性を隠れ蓑にした極端な誹謗中傷なんかは僕の知る限りないですが、ネットの中での表情と現実世界の表情が違う人を見る事は、本当にたくさんありいつも驚かされています。

この事について、え?何があかんの?と思ってしまう人も多いと思いますが、ネットの中の自分と現実世界の自分にギャップが生まれてしまう事は実は非常に危険な未来を生む可能性があると考えています。

と言うのは、このまま現実社会とネット社会に属する個人(自分)とのギャップが生まれる事が当たり前になってしまい集団意識の中から生まれた個人になりきってしまっては、本来持っている個人の意見と言う権利を見失うことに繋がるのではないかと僕は感じています。

個人の意見と言う権利を固持する事は、現実社会で生きる上で、また現実社会を次の世代へ繋げる為にも必要不可欠な要素です。

この権利を失うと言う事は集団社会の中で社会に対して自ら口を塞ぎ未来への可能性を拒否することを意味しているように僕には見えてしまいます。

今やSNSを利用して革命の切っ掛けを作り、自分の意見を持つ権利を固持し行動に移し続け革命を勝ち取ると言う事も現実に起こる程の魅力がSNSにはありますが、SNSは只のシステムであり、使うのも使われるのも結局は人間次第です。

一人では生きることができない時代になりましたが、自分の意見を守る事のできない時代にしては絶対にいけないと僕は思う。
そして、自分を守る事ができるのは誰でもなく自分自身だと僕は思う。
飾らなくていい、ありのままで生きる事のできる時代をもう一度作らなければならないと僕は強く思っています。


最近の中東は動きがめまぐるしく影響されまくりの僕の勝手な、でも真剣な意見でした。

レヒトラオウト

どんな暴力も絶対反対!!

ありがとう

So
www.so-matsuzawa.com

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